「記録と記憶」② 記録が語る番神山の記憶

 

スポーツ選手に関する「記憶」の強弱は、その選手に「記録」があってこそと書いた「記録と記憶①」。ここで言う記録は、歴史を塗り替えるような新レコードのことではなく、それぞれの実績や、その選手のプレーがどのようであったかを伝える映像、ないしテキストによるものである。

選手の記憶を後世に伝えてくれる記録だが、時の移ろいは記録そのものを風化させる。

紙に印刷したものも、フィルムに写したものも劣化は免れない。下手をすると消失してしまう。現代のクラウドサーバに保存したものは、劣化することなく最も長く残せる方法かもしれないが、デジタルデータにも何が起こるか分からない。

できるだけ確実に、より長く後世に伝えたいと考えるとき、人は石や金属に刻んで碑を立てたり、その人の姿を伝える像を作る。こうした記念碑は、選手の勇姿を知る人が絶え、誰も記録を顧みなくなった後でも置かれたその場にとどまり、たまたま訪れた人に選手の記録を伝えることになる。

1930年代の力士で、最高位が前頭二枚目という番神山を私が知ったのは、たまたま目にした石碑の記録による。これを見なければ、決して知り得ない力士だった。

 

誰もいない海抜30mの見晴らし台に石碑


 

番神山の故郷である新潟県柏崎市は、海岸線に沿っていくつもの海水浴場が続く。その1つ、東の輪(とうのわ)は、浜と崖を道路で縫い合わせたような地形で、道から壁のようにそそり立つ崖を仰ぐ。その急斜面には、津波の際にはここを登れと避難階段が作られている。

その階段を登り切ると、海抜30mの高さになる。頂上は庭園のようで、海を一望するアリーナさながらウッドデッキもしつらえてある。この高所から海を眺めて酒盛りをしたら楽しそうだが、盆前の照りつける日差しの下では酷に過ぎた。冬の荒海を眺めるのも面白そうだが、その時分には冷たい海風が強過ぎることだろう。

せっかくの景色も活かしようがないようで、浜辺の混雑とは対照的に、海を見下ろす避難所には私の他に誰もいなかった。番神山の石碑は、そこに建てられていた。おそらく四股名の由来になったと思われる番神堂境内の隣地だからだろう。

 

避難階段の上は開けた公園に

 

碑文は1998年に社団法人柏崎青年会議所が製作したものらしく、次のように彫られていた。

 

 「相撲じゃ番神、柔道じゃ石黒」と柏崎の民謡・三階節にも唄われた番神山政三郎(ばんじんやませいさぶろう)は、柏崎市岬町(現在の番神)出身の力士です。初土俵は1927年1月、最高位は前頭二枚目で、1934年5月の天覧相撲で優勝しました。

 番神山が相撲界に入った昭和初期は世界的不況の暗い時代でしたが、そこに彗星のごとく番神山が登場しました。

 地元柏崎刈羽の人々のみならず、新潟県民も大変誇りに思い、世の不況を吹き飛ばすほどに熱狂し、声援を送りました。

 

碑文の後半は、番神山の記録ではなく、当時の人々の記憶を記したものになっている。それも文面を考えた人の思い入れをかなり反映させた記憶のように思われる。「世界的不況の暗い時代」に「彗星のごとく」登場するとか、「世の不況を吹き飛ばすほどに熱狂し、声援を」送ったことが同時代人の感覚として妥当かどうかは分からない。

碑文には1934年の天覧相撲で優勝したとある。これが、いわゆる本場所でないことは確かだ。ただし天覧というからには天皇が関連した相撲大会であったわけで、現代では分からない権威がその大会に認められていたのかもしれない。そこで平幕優勝した快挙を「彗星のごとく」と称えているのだろう。

最初に石碑を読んだときは、遠い伝説のように思えた。しかし番神山の没年は1982年とあるから、私も生まれている。また、1934年の天皇といえば、昭和天皇のことになる。さほど遠い歴史ではない。

番神山を検索すれば、ウィキペディアその他に詳細な情報が記されていた。肖像画像も出てくる。ちゃんと記録されている力士だった。

 

双葉山と同期、十両昇進は同時


 

番神山、本名は長谷川政三郎。1909年生まれで、1927年1月に初土俵を踏んだ。同年にデビューした力士の中に、あの双葉山がいる。番神山より1場所遅れて3月場所が初土俵だった。年齢は番神山が3歳上だ。双葉山と同時代・同世代の力士と考えると、番神山の存在がさらにリアルに思えてきた。

双葉山との比較でいうと、年齢も上だったこともあり、十両昇進までは番神山の方が早かった。番神山は一度、幕下に陥落するが、31年夏場所に再度、十両に昇格している。双葉山も同じ場所に十両となった。

翌1932年の初場所に、幕内力士の半数以上が協会を脱退する春秋園事件(天龍事件)が起きると、共に十両で番付も近接していた2人だが、番神山は協会改革を訴える天龍について脱退し、双葉山は残留した。双葉山は大量の欠員が発生したことで、西十両五枚目から一躍、西前頭四枚目に昇進している。

番神山は、1年後の33年初場所に協会に復帰、十両格で再スタートを切った。年2場所制の当時、いずれも大きく勝ち越して1934年初場所には新入幕を果たしている。その初場所も勝ち越した上り調子の中で、先の5月の天覧相撲を迎えた。

ちなみに双葉山は32年から2年間、前頭で勝ったり負けたりを繰り返していた。34年の初場所では前頭四枚目、番付は2年前と変わらなかった。

 

天覧相撲で優勝、次ぐ本場所は準優勝


 

5月の天覧相撲の詳細は分からないが、番神山は続く本場所でも準優勝と好成績を納めた。184cm・100kgを超える巨体で手数の多い突っ張りを得意としたという。当時の活躍は、およそ20年前の最強横綱・太刀山の再来とまで評されたそうだ。そうなると、碑文にある「彗星のごとく」や「世の不況を吹き飛ばすほどに熱狂」といった表現も、同時代の雰囲気を反映した表現なのかと思えてくる。

 

35年の活躍でその名をとどめた番神山(画像はイメージ)

 

35年には前頭二枚目となったが、先にも触れたように番神山の出世はここまでだった。ウィキペディアには、胃腸障害に苦しんで大成できなかったと記されている。

ついでに双葉山はどうなったかというと、34年の2場所はいずれも勝ち越し、35年初場所では小結に昇格している。しかしそれから2場所は連続で負け越し、36年初場所では東前頭三枚目だった。そのとき西前頭三枚目は番神山である。ここまでの実績を見る限り、番神山の方が将来を期待されても不思議ではない。

この36年初場所、同じ西前頭三枚目で二人は共に横綱・武蔵山から金星を挙げている。そして両者とも現役で獲得した金星はこの1つだけだ。

 

36年初場所を境に、双葉山はあの双葉山に
番神山は、番付の階段を降りていく

 

36年で二人はデビュー10年目だった。ここまで出世レースを競ってきた感もあったが、以降の番神山は番付をどんどん下げていき、41年に幕下に陥落、引退している。一方、双葉山はこの場所から始まった連勝街道が69まで続いていく。

引退後の番神山は、年寄・雷を襲名した。戦後は独立して雷部屋を運営した時期もあったが、じきに閉鎖して立浪部屋所属の年寄として定年まで勤め上げたという。

浜を見下ろす避難所の原っぱに、20年近く前に建てられた碑文を見なければ、番神山の存在を知ることはなかった。そしてネット時代はありがたいもので、戦前の平幕力士の記録についても、概要を知ることができた。化粧回しをつけた姿まで確認できた。これらの記録だけを手がかりに、私の記憶にも番神山が刻まれた。

やはり記録あっての記憶である。また、時空を超えて情報を伝える文字メディアの特性を再認識した。石碑に刻まれる人になるのは大変としても、ネットに記録することも、時空を超える方法の1つだと再確認した。


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