「記録と記憶」① 記録あってこその記憶

 

スポーツの世界には「記録」よりも「記憶」に残ると言われる選手がいる。この記憶に残る系の選手の実際は、残した実績以上に「印象深い」ということであり、何の記録も残していないわけではない。

スコアブックに記載されるデータだけが記録ではない。写真や動画で残されたもの、記事や書籍などテキストで記述されたものも記録の中に含まれる。映像やテキストによる「記録」なしに、その選手を「記憶」に残すことはできない。つまり「記録よりも記憶に残る選手」というのはとても不正確な表現で、本当は「実績データ以上に印象の強い選手」と言わなければならない。もっとも、表現が正しいからといってその文章が記憶に残るとは限らない。そこで記録と記憶を対比させるレトリックが発明されたのだろう。

 

ルーツは20世紀のONか


 

記録と記憶を対比する言い回しは、おそらく王貞治と長嶋茂雄を比べたときに編み出されたレトリックではないか。

長嶋茂雄が選手として残した記録は傑出したものではあるが、王貞治の圧倒的な実績の前には見劣りしてしまう。しかし長嶋選手の偉大さを王選手に次ぐものと位置づけたくないという思い、もしくは位置づけてしまうのは同時代の感覚を正確に表現するものではないという思いが、「記録の王、記憶の長嶋」といった言い回しを生んだ・・・、ように思う。それくらい長嶋は、「記憶に残る選手」と語られることが多い。

それが20世紀の話で、21世紀が始まった2001年には、共にメジャー1年目を終えたイチローと新庄剛志を比べて記録と記憶の対比が使われた。もっとも、対比したのは新庄剛志その人だが。

新庄は、「記録はイチロー君、記憶は僕で」みたいに語った。

いやはや。2人を対比すれば、01年シーズンに限ったとしても、記録も記憶もイチローのものだろう。記録のレベルが上がれば、記憶の質も高まる。とはいえ、新庄は紛れもなく「実績データ以上に印象の強い選手」だ。1977年生まれの私が見てきた中で外野手ベスト3を選ぶとしたら、イチロー、松井秀喜、そしてためらいつつも新庄を第3位に挙げてしまうくらい実は好きな選手だ。

 

新庄の記憶も、素晴らしい記録に支えられたもの


 

イチローのメジャー挑戦は、当時から日本プロ野球史にとって必然の挑戦と認識されていた。すでに野茂英雄や佐々木主浩が成功し、日本の投手がメジャーで活躍できることは証明されていた。それでは日本最高の野手は、メジャーでどこまで通用するのか。イチローの挑戦は日本プロ野球の歴史と、プロ野球ファンの期待を背負ったものだった。

ファンが抱く期待には不安も入り混じっていたように思う。もしもイチローが通用しないとなると、次に続く存在はちょっと考えられない。イチローの渡米は、日本の野手のレベルを推し量る最初の挑戦にして、実際には最後の切り札でもあった。挑戦の結果は見たいが、怖い感じもする。そんな雰囲気があった。

ところが日本プロ野球史をかけたイチローの崇高な挑戦に、新庄剛志も加わると言い出したのだ。話としてまるっきり蛇足だった。当時の週刊誌の中吊りに「猫も杓子も新庄までも」メジャー挑戦と書かれていたのを覚えている。

プロ野球ファンの多くは新庄のメジャー挑戦に失笑したが、イチローとは比べものにならないとしても、1年目の成績はなかなかのものだった。

新庄は123試合に出場し、打率.268、本塁打10本。イチローでさえ、打率は日本での最終年度より4分近くも落ちたのに(それで打率.350)、新庄はキャリア最高だった00年に対して1分しか落ちなかった。日本では1割以上も離れていたイチローと新庄の打率の差は、メジャーに来て縮まった。それだけ新庄はメジャーで健闘したのだと思った。

その後、新庄が日本ハムに移籍した04年は、統一リーグ構想が表面化し、最後のオールスターゲームになるかもしれない状況だった。

新庄は、その試合でホームスチールを決めてMVPを獲得し、ヒーローインタビューで「これからはパ・リーグ」と言った。パ・リーグが消滅するかもというタイミングでの発言だ。球史に残るパフォーマンスだったと記憶している。オールスター戦で記録された新庄のホームスチールは、かつて2リーグ制が危機に瀕したことを思い出させるものであり、新庄剛志がどんな選手だったかを後世に伝えるものでもある。

実績として残された数値だけを見れば一流選手と言えるかどうかも微妙だが、新庄剛志の走攻守はいずれも華があった。意外性もあり、楽しかった。数値以外の記録(多くは映像の記録)によって、新庄は自称だけでなく「記憶に残る選手」と評価されている。

そんな新庄の記憶に残るプレーの数々は、実際にはすべて記録に残されたものだ。記録に値するプレーをしたからこそ、人々の記憶に残っているというのが本当だろう。

記録と記憶の対比は、ただのレトリックに過ぎない。実際には、1つ1つの記録の積み重ねが見るものの記憶になっていく。

ここでは野球の例えしかできなかったが、あらゆるスポーツ選手が記録の積み重ねによって記憶されている。なかには記憶の方に残ろうと懸命になっているアスリートも見受けられるが、記録に集中した方が、記憶に値する印象が残るだろうと思う。


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