目覚め

 

火葬に立ち会うのは3度目だった。これまでは私の祖父母、今回は妻の祖父の骨を拾った。

親戚は概ね長寿で、友人もおおよそ健康的で、国も平和なおかげで葬儀に参加する経験はそれほど多くなくここまで過ごせた。

祖父母の多くが90歳を越えて長寿だったことで、甥や姪、うちの子は私よりはるかに若い(幼い)ときから葬儀を経験している。5歳になる坊やは、曽祖父の葬儀に参列してから何度か絵本で読んだ天国の話をしていた。寝る前には妻君に「死む(ぬ)のはとても怖いことだ」と話したらしい。

祖父母は(坊やにとって今回は曽祖父だが)いろいろなことを教えてくれるし、多くは嬉しいものを与えてくれる。お年玉とか。そして最後に死ぬことを目の当たりに示してくれる。ありがたいことだ。曽祖父の一生で一度だけの教えが、坊やにどのような影響を残したかは分からないが、嬉しいことでも楽しいことでもない経験を、いつかしなければならないことを学ぶ機会になったようだ。

死の経験がないという意味では、私も坊やと同じだ。生きている誰もが未経験者だ。

灰を固めたものかのように無機質な遺骨を拾いながら、やがてこうなるのだなと考えていた。子供に天国や死について尋ねられても、教えられることは何もない。

ただ、語られる「あの世」については、それは生きてる人が言ったことだと伝えねばならない。死んで語った人はいない。甦って臨死を語る人も、語るその時は死んでいない。まして宗教で語られるところの天国は、本質的に死後のことではなく、生きている人間の心がけのことだ。

死に至る間際は、やはり苦しいだろう。死の一線から先は、どんなだろう。

そんなことを考え始めたら、大人でも不安な気持ちになる。

病に倒れるか、高齢で身体が弱るか、経済状態によっても死に至る過程は異なるだろう。ライター稼業では心細い。経済的に豊かな方がよさそうだ。しかし金持ちといえども死ぬ。死ぬ過程の肉体的な苦しさはそれほど変わらないだろう。死は生きる先の最終地点だが、生きることの目的地ではない。そう考えた方がよさそうだ。死に方は問われるとしても、死そのものを問うても何も始まらない。死を想像することの不安は無意味だ。不安になるような考えは退けて、生きる方法を具体的に考えよう。

生きる具体的な方法。これこそ考えるべきことで、考え過ぎることはないくらいであり、おおよそ私の考えが足りていないテーマだ。行動も足りていない。そう思うとまた不安になる。これは生きることの不安か。不安そのものは百害あっても意味はないから、できるだけ排除して、具体的な方法を・・・・、と思っている間に眠っていた。

目覚めには、眠りの中で電話のベルを聴いたように思う。ジリリリリではなく、プルルプルルと鳴っていた。ダイヤル式の黒電ではないが、スマホの着メロでもない。プッシュ式の電話音が聞こえるあたりが私の世代を反映しているかもしれない。

今朝、40歳になった。ありがたい。もう10歳若ければもっとありがたいところだったが、仕方がない。


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